ジロジロ見てくるおじさんから学んだこと【老いるとは?】

人間同士のコミュニケーションは、主に言葉を用います。

言葉以外にもジェスチャーなどの非言語コミュニケーションも重要です。

「目は口程に物を言う」ということわざのように、視線には特別な意味があることは古くから言われています。

しかし、視線は言葉ほど確実に意志伝達ができません。

ただじっと見られただけでは意味が伝わりづらいので「何か意味があるのかも?」という点で気になってしまいます。

外出中、すれ違いざまに相手がコチラをガン見しているなと気づく事があります。

特に印象に残るのが高齢男性のガン見です。

「何か意味があるのか?」「なぜ見るのか?」という疑問が生じてしまいました。

理由がよくわからないので考えてみると、自分自身の過去の経験にヒントのようなものがありました。

思春期、他人が気になって仕方がなかった

自分自身、人の視線は気になってしまうタイプなのですが、今以上に視線が気になっていた時期は思春期の頃でした。

思春期は、肉体的、精神的に変化する時期で誰もが通る道です。

その当時を思い出してみると・・・

  • 「自分は人からどう見えるのか?」
  • 「どう思われているのか?」
  • 「他人と比較して劣っていないだろうか?」

という事が気になり、比較対象として他人をジロジロ見てしまうという事がありました・・・。

その後自分自身、人からジロジロ見られて「ジロジロ見られることはとても不快」と気づき、やめました。

いつのまにか習慣に

もしかしたら、すれ違いざまにジロジロ見てきた彼らは、その気付きがないまま年を取ってしまったのかもしれません。

今まで人をジロジロ見てきても、大した問題もなかったのだと思います。

だから、気付くことができない。これから先も問題が生じない限りその習慣を続けてしまいます。

他者の欠点を指摘することはリスクある行為

相手の問題点を指摘、注意する事ってリスクのある行為です。

「注意した相手が逆上して、暴力沙汰に」みたいなニュース、たまにありますよね。

わざわざリスクを取って、指摘してくれる人って結構貴重だと思います。

高齢者を叱る人は中々いない

ましてや、高齢者相手には「年長者を敬う」的な価値観もあるので、指摘することは極めて難しいです。言葉の選び方、伝え方も大事だと思います。

若いうちなら、周りの人が叱ってくれたり、指摘してくれる可能性はあります。

しかし、高齢者を叱ってくれる人は中々いません。

それを自分に出来るか?といったら、とてもとても難しいです・・・・。

仮に問題を指摘してくれる人がいたとしても「今まで自分の判断で上手くやってこれたから、自分は正しい」とプライドが邪魔をして受け入れることが難しくなりそうです。

高齢者の免許返納とかそんな感じですよね、重大事故を起こして初めて自分の衰えに気付くこともあります。(この問題は、社会的な問題ともいえるので、一概に個人の問題とも言えませんが)

家族なら関心を持ってくれる可能性はあるが、確実ではない

実際、高齢者の問題点を指摘してくれそう(関心を持ってくれる)な関係性というと、配偶者か子供ぐらいしか思いつきませんが、それも100%確実ではないですよね。

配偶者に先立たれたり、子供は遠くへ行ってしまうかもしれません。

他者の意見を受け入れる柔軟さを身に着けておきたい

そうならないためには、万全ではないですが、なるべく早いうちに(考え方が固まる前に)

  • 読書などで色々な意見や価値観を知り、自分の行動や考えが絶対ではない事を知る
  • 他者の意見を受け入れるだけの柔軟さを身に着ける

これらを習慣化しておく事が大事なのかなと思いました(それでも確実性はなさそうですが・・・)

まとめ:ジロジロ見てくるおじさんから学んだ事

  • 人間は習慣の生き物
  • 老いると自分の問題をより気付きにくくなる
  • 他人の問題点を指摘してくれる人は中々いない(高齢者に対してはより難しい)

人間は習慣の生き物で、特に問題がなければ良い習慣も悪い習慣も維持し、老いていきます。

ジロジロ見てくるおじさんは、人を不快にする可能性の高い誤った習慣を気づくことなく続けてきた結果なのかもしれません。

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