生きる意味を強く求めていた時期がありました。
その頃の自分は、崖っぷちに立たされていたような状態でした。
何も考えないよりは、生きる意味や人生の意味について真剣に考える事は大事だと思います。
生きる意味について考えている人の参考になったら幸いです。
生きる意味を求めた理由
生きる意味を求めた理由は、精神的に生きていく事が困難になったからです。
生きる意味がなくなった
物心ついた頃から生きづらさはありました。高校時代ぐらいから本格的に生きづらくなり、就職してから完全にダメになってしまい、ひきこもるようになりました。
今までは自己肯定感が無くても、学生、社会人という属性、身分によって自分をギリギリのところで支えることが出来ていました。
しかし、ひきこもり状態になり社会的身分、属性という柱を失ったことで、自分を肯定する材料が完全に無くなりました。
その時生きる意味がなくなったように感じました。
はじめて強く生きる意味を求めた
今まで生きる事がつらくても、そこまで強く生きる意味、人生の意味を求めたことはなかった。
社会的規範、他者の視線によって自分を支えられなくなり、当面社会に合致したような生き方をすることが困難な状況になった事で、強く生きる意味を求めるようになりました。
外部から自分を肯定する材料が得られないなら、内部からそれを求めざる負えなかった。
「生きるため」には「生きる意味」を求めるしかなかった
当時、生きる意味を求めていた事を振り返ってみると、精神的に追い詰められていました。
崖の方へ、一歩踏み出しそうな危険な状態で立ち止まるには、「生きる理由」を求めることが唯一出来た「生きるための方法」でした。
冷静に客観的に自分をみることが出来ず、目の前の苦しみと向き合い続けても、状況を変える力はなかった。
なので一時的にそれを棚上げして、「生きる意味」という壮大な問いを立てることによって、生き延びようとしたのだと思います。
「生きる意味」という新たな苦しみ
今までは他者の評価によって自分を肯定していました。
その方法しか知らなかったので、それに頼らないで自分を肯定することは困難を極めました。材料も道具もレシピも無い状態で、食べたことも見たこともない料理を作るような事でした。
他人の視線という苦しみに加えて、「生きる意味」を探すという新たな苦しみを感じるようになりました。
生きる意味はない
数年前に自分なりの答えが出ました。これは自分の個人的意見です。
生きる意味がない事に納得できたら苦しみが消えた
自分と向き合って出した結論は「生きる意味はない」でした。
「自分が生きているのはたまたま偶然で、何か大きな力などあるはずもない。」
そう気付いたとき、心底納得しました。解放感が凄かったです。
苦しみによって自分を壊さないために、存在しない問いを立て、その問いに囚われて新たな苦しみが生まれていた。それがやっと終わった瞬間でした。
存在しない生きる意味を求めることは無意味なのか?
生きる意味を求めた理由は生きていたかったから。
今こうして生きているのも、生きる意味を求めたからなので無意味ではないと思います。
生きる意味を自分で決められる
生きる意味について悩む前と悩んでいた最中は、人からどう思われるかが常に頭の中にありました。
生きる意味は存在しない事に納得したら、他人基準ではなく自分で自由に生きる意味を設定してもいいんだと気づけました。
楽しい時は生きる意味なんて求めなかった
思い返すと、楽しい時に生きる意味なんて求めていなかった。
もしかして追い詰められていない?
自分が生きる意味を求めた理由は、外から得られなくなったからです。
自己肯定感が無い状態で、他者によっても肯定できなくなり、生きることが困難になった。そして、自分からも逃げられないので向き合わざるを得なかった。
生きる意味を求めることは間違いではありません。けれど、もし生きる意味を求めている状態なら一度冷静になってみることも必要です。
環境を変えて解決できる場合もある
何かによって追い詰められているかもしれません。
距離を取る、環境を変える事によって、苦しみがなくなる場合もあると思います。遅くなれば遅くなるほど、消耗した精神を回復するのに時間がかかるようになります。
人間には限界があるので、最悪の事態になることも考えられます。
生きる意味を求めたことによって、生きたいという気持ちに気付けた
人生は長いので、あまり急がず時間をかけて向き合うことが大事だと思いました。
生きるために生きる理由を求めていたので、何より大切な事は生きることだと思います。そのことに気付けました。
生きる意味はありませんが、生きたいという気持ちはあります。
それを忘れないようにしたいです。
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